アヴァンギャルドとロシア美術
1900−1930

いま甦る国立ロシア美術館の至宝
1992年9月、北海道・札幌にて開催された美術展のカタログを、数多くの美術ファンからの要望にお応えしての限定通信販売。
カタログは完売いたしました。
 
今世紀初頭の激動

 1917年の十月革命につづく第二の激動と言われ、ロシアではこの十月革命の前後に、文学や演劇と同じく、美術においてもめざましい展開がみられました。このカタログはこの美術活動の中心でありながら、長い間本国では冷遇されてきた前衛美術運動、アヴァンギャルドに焦点をあてつつ1900−1930年のロシア美術の流れを、世界初公開作品4点、日本初公開作品52点を含む国立ロシア美術館の所蔵品60余点によって、たどろうとするものです。
 1900年代のロシア美術には世紀末の象徴主義の影響が残っていましたが、1910年代になると急速にアヴァンギャルドの運動が台頭しました。国内ではカンディンスキーが抽象絵画を描いて活躍し、国内でもイコン画などに触発されプリミティブな美術を探求した「ダイヤのジャック」派からヨーロッパの立体派、未来派に呼応する立体=未来主義まで広汎な運動が興りました。
 こうして第一次世界大戦前後には、マレーヴィッチによるシュプレマティズムの無対象の絵画が生まれ、ロシア美術は西欧を一歩リードするまでに至り、さらに十月革命によって新たな段階を迎えました。アヴァンギャルドの作家たちが美術行政に関与し、美術教育の改革などに取り組みます。一方、実用性を探求して今日のデザインの源ともなる構成主義も台頭します。
 1920年代のロシア美術はアヴァンギャルドがしだいに後退するなかで、リアリズムの華々しい復興がみられます。もっともそのリアリズムはレニングラードで活躍したフィローノフの特異な表現世界を含め、まことに多彩な様相を見せていました。
 1930年代になると、全体主義体制の成立は自由な美術活動を禁止し、アヴァンギャルドを文字どおり圧殺することになりましたが、西欧では1970年代に再評価の気運が高まり、ようやくロシアでも今日その全貌が明らかにされつつあるところです。
カンディンスキー「黄昏」1971年

造形的なシンボルにより、おぼろげな不安感、未知なるものの予感を伝えている。作品の情緒的な雰囲気としてはドラマティックなイントネーションが勝っている。
マレーヴィッチ「シュプレマティズムの色彩構成」1910年代

他のシュプレマティズムのコンポジションと同じく、マレーヴィッチは最小限の造形手段で形象を創り出している。このコンポジションでは、平面、正方形、十字といった彩色された幾何学的な図形がダイナミックに結合している。この構成は全体として、画家の考えるところの宇宙の無限を象徴する背景の白い空間を飛翔するものとして描かれている。
シャガール「父」1914年

絵は表現主義的なプリミティヴィズムの手法で描かれている。慣習的な彩色とグロテスクなデフォルメによって形象は「異化」され、叙情的でドラマティックな響きが強められている。人物と周囲の特徴が、おおまかではあるけれども、きわめて雄弁に描かれている。
国立ロシア美術館は旧レニングラード、現在のサンクトペテルブルグの中心、ネフスキー大通りの近くに位置しています。オペラハウス、コンサートホール、劇場、民族学博物館などの立ち並ぶ“芸術広場”の奥に建つ、黄色い壁と白い円柱の調和がひときわ美しいロシア帝国様式のファサードを持つミハイロフスキー宮殿を正面エントランスとしています。現在同美術館が所蔵する作品数は38万点を数え、聖像画(イコン)、絵画、彫刻をはじめとして古銭、装飾、工芸品、民芸品の優れたコレクションを誇り、その領域は18世紀から今日に至る主要なロシア芸術のすべてを網羅しています。
  • カンディンスキー「黄昏」
油彩、彼の創作活動が最も充実していた頃の作品。カンディンスキーのスタイルが確立され、固有の秀逸な描写方法がとられている。
  • ペトローフ・ヴォートキン「幻想」
赤い馬が騎手を乗せて山々や村、丘の上を飛翔する様は、人間の果てしない夢、芸術の限りない表現の広がりを現している。
  • フィローノフ「山羊」
ロシア芸術史上、20世紀を代表する天才の一人と言われる。この作品も彼の表現方法における主張が全面にだされた。

(写真説明=カンディンスキーの「黄昏」を持つペトロヴァ副館長。右上はフィローノフ「山羊」、同下はペトローフ・ヴォートキン「幻想」)
<<ロシア−ソビエト アヴァンギャルド・アート>>
国立ロシア美術館 副館長 ペトロヴァ女史
歴史的概要

 ロシア−ソビエト アヴァンギャルドは、初期西ヨーロッパ近代主義の黄金時代と同時期に運動が起こり発展していった。しかしながら、ロシアではこの現象は、他の時期には見ることのできないくらいの豊富な形態を作り上げた。駕くべき数の才能は、人々のパフォーマンス、多数のグループの中、複雑な構造でできた組織の中からも見つけることができる。従ってこれからモダニズムの動向とその多様性について述べていこう。アヴァンギャルドを一言で説明することはできないのである。ロシア帝政最後の時期に起った大変革が社会的背景となってモダニズムを生み、それは政治的な革命にとどまらず、前例のない芸術的革命となったのである。モダニズムの命名は、このような社会的バックグラウンドが基本にある。
 社会的混乱の時、モスクワとセントペテルスブルグの画家達への、西∃ー口ツパの最新の絵画のトレンド情報は驚くべきものであった。1910年代初頭、パリ、ミユンヘン、ミラノの芸術が開花した。キユービズム、未来派、抽象画が同時期に生れるという現象が起った。モダニズムを好むコレクターが更にこの現象に影響を与えた。1897年初め、後にフランス モダニズムを中心にコレクションをした Sergei Sehukin は、Monet(モネ)をパリで購入した。彼は、セザンヌ、ゴツホ、ゴーギャン、ドランを集め、後にマチス、ピカソを主に集めた。これらのコレクシヨンが1914年にモスクワヘやってきたのである。lvan Horozov は、最初ナビ派の絵を中心に収集した。1908年以降、彼は注目にあたいするマチスの極めて完成された作品を購入した。この2人のコレクターは、彼らの所蔵品を公の場に発表したのだが、それは当時の画家達に大きな影響を与えた。この時期アートジャ−ナルを出版することが流行り、中でも一番重要なのが1905年から1909年まで発行されていた ”The Golden Fleece”である。そして、いくつかの国際的展覧会が定期的に行われた。
 後期象徴派に最も影響を及ぼしたのは、Mikhail Larionov と Natalia Gonchanova である。1908、1909、1910年に Mikhail Larionov の Golden Fleece は、モスクワで重要な展覧会のシリーズを行った。1908年の展覧会では、セザンヌ、ブラック、マチス、ルオーなどを紹介した。1909年の展覧会では、ロシアとフランスのモダニズムの画家達を並べて展示した。Golden Fleeceの展覧会は、ロシアのフランス絵画の影響の絶頂期を示している。1910年の展覧会では、”ダイヤのジャック”の形成が見られる。このグル−プのメンバ−には、Rbert Folk、Piotr Korchalovsky、Arstarkh Lentulov が含まれ、彼らは1910〜1918年の間に色々な展覧会に作品を出品している。一般的に言って彼らの画風は、キユービズムとして説明され、モスクワ セザンス派として知られている。しかし、1912年に作られた ”ロバのしっぽ” は、フレンチスタイルから脱皮した。ロシア人は、キユービズムに対してロシア工着の大衆芸術とロシアの不の人形のごつごつとした形から発想を見つけた。 ネオプリミティブと知られているこのトレンドは、同時にマチスとフォービズムの画家達や風刺版画のルーボツク、イコン、サインボード、ペインターなどからも影響を受けている。Larionov は自分達の芸術を彼自身の作品も含めて、それは、無学の兵士が壁にいたずら書きをするようなものだと言っている。聖書の一節からくる印象は合成キュービズムの絵の一部に言葉の断片を入れる技法とよく似ている。この時期のロシアの絵画において、国内と国外の特色がいかに絡み合っていたかが証明できる。
 フランスの影響が下火になった頃、人々の興味は、イタリア未来派へと移っていった。Cubo Futurism は、1911〜1913年の間に除々に発展していった。ラリオノフの描く末来派の画風は、ラヨニズム(ロシア ルチズム)として知られるスタイルの Rayonism(光線主義)Luchism といった画風で、1912年、絶頂期に達した。その画風をもっと詳しく説明すれば、ラリオノフは Futurism と Orphism を結合させ、視覚的なものが作り出す印象を分析する試みを行った。光がプリズムになって屈折し、色は放射線が群がり、その一群が斜めに交差する。Rayonism は、非対象主義芸術を生み出す最初の試みの一つであった。ダイヤのジャックの未来派の画家達はセントペテルスブルクの青年同盟に独立した部門として加った。これによって彼らは、青年同盟の発起人の Mikhail Matiushn と Olga Ronzanova と詩人のVladimir Mayakoush に出会い、これによって Cubo-Futurism が起る。彼らとともに Lyubou 、Popova 、Nadezhda Udaltsava 、Alexander Extr が Cubo-Futurist である。1915年、Cubo−Futurism が衰退し、新しく絵画で表現する言葉が表れた。彼らの才能も虚しく、Larionov と Goncharowa は Modernism のグループの中で衝突し、新しい流れの中で次第に孤立していった。1915年、彼らはスイスの The Diaghilev Group に加わり、それ以降ロシアヘは帰ることがなかった。
 1910年代、キュービズムは、non−representioual art へ導く重要なチャンネルとなった。ラリオノフ、マレービッチ、タトリンがこの時期、同時に活躍している。中でもマレーピッチは、西∃−口ツパのモダニズムに大きな影響を与えた。ラリオノフと交際をするようになってからマレーピッチは、ロシア人農夫を題材にキュービズムとセザンヌの技法を交ぜて、ネオ・プリミティブスタイルで描くことを始めた。1913年頃、彼は現実に存在する物の観察から生み出される形を描かずに、形の理論を展開させた。この段階は未来派に密接につながる。1913年、マレーピッチはマチューシンと Kruchenykh's の未来派オペラ ”太陽のむこうの勝利 ”で衣装と装飾のデザインを行った。マレービッチはこの時、新しい絵画の表現を生み出し、分析的キュービズムと未来的詩のバランスを追求し始めた。彼の始まりの一つの例として、既成の言語を非理論的な言葉に新しくしようとする、experimental zaum poetry がある。zaum は理論的な理由を越えたもの、高い位置にある意識を考えている。マレーピッチの並はずれた考えは、セントペテルスブルグでもてはやされた神知学、束洋の宗教、四次元の理論から影響を受けている。イコンのシンボルと合間ってマレーピッチは、特に幾可学的な形と不思議なシンボルの組合わせに魅了された。マレーピッチはここで、内面的なものだけを表す芸術形態を見つけ出そうとした。披は、新しい種類のイコン(見るものの精神的な気持を重視して言葉を入れない)を描く試みをする。 1915年12月〜1916年1月にかけてマレーピッチは、彼の新しい作品(Non-objective art)を35点を発表した。マレーピッチは、彼の芸術をシュブレマティズムと称した。シュプレマティズムとは新絵画的写実主義を意味し、マレ−ピッチの ”純粋感情至上主義 ”から定義されている。形式として考えれば、マレーピッチの作品は白いバックの上にユークリット幾可学の初等幾可学を基本色で描いている。Rayonism(光線主義)と比べて、シュプレマティズムは多くの賛同者をひきつけた。1916年、マレーピッチの回りに集まる芸術家のグル−プが ”Supremes ”という名のジャーナルを出版した。 このグループのメンバーには、Lyulov Popova、lvan Kliun、Olga Rozanova、Nadezhda Udaltsova、Uere Pestelなどがいる。マレーピッチとシュプレマティズムは、ロドチェンコの pre constructivistic の段階に衝撃をもたらし、革命後、Lissitsky を含め、ビデブスク芸術学校の生徒全員に刺激を与えた。マレーピッチの賛同者の中でも注目に値するのが2人の女流芸術家である。 Popova は色彩に関して、たぐいまれな才能の持ち主であった。最初に彼女はキュービズムと関わり、次にシュプレマティズム、そして最後に構成主義へと移っていった。 0lga Ronchanova もまた、キユービズム、未来派、シュプレマティズムの段階を経ている。Popova(1924)と Ronehanova(1918)の早すぎた死は、アヴァンギャルドの大きな損失となった。
 Vladimir Tatlin のモダニズムヘの道は、アヴァンギャルドを引っぱていく同じ立場でライバルでもあるマレ−ピッチのそれと違う。未来派の0.10展でのタトリンとマレーピッチの殴り合いは伝説となった。モスクワ生れのタトリンは、ラリオノフとゴンチャノワから確かに影響を受けている。 しかし、タトリンはラリオノフとの公友関係を断った。1913年(または1914年)にタトリンは、ミュンヘンとパリでウクライナのフォークダンスグループをひきつれて公演をした。パリで彼はピカソと Lipchitz に会っている。 タトリンはペトログラードで重要な Tramway V という末来派の展覧会を行っている。Tramway V とは、1915年の第一回目の展覧会と0.10展から1915〜1916年に移る時の最後の未来派展のことをいう。タトリンは平面の上に描くイーゼル絵画を放棄し ”コーナーリリーフ ”または ”コントラリリーフ ”として知られる三次元構成へと変わっていった。ピカソとともにタトリンは、伝統的なこれまでの道具を捨て、メタル、木、ガラスなどを使った立体造形を最初に始めた∃一ロッパ・アーチストの一人である。メタルによる早い時期の経験がベースとなり、タトリンは構成主義を築いた芸術家となったわけである。タトリンの最も有名な作品が ”第3インターナショナル モニュメント ”のデザインである。木製の模型は、1919年に完成し、1920年にそれもモスクワの懐疑的なソビエトのリーダー達に向けて展覧会をした。このモニュメントは、大掛かりなもので Neva川を越えてペトログラードに建てられた。400メ−トル以上の高さのモニュメントは、エッフェル塔に意識して作られている。巨大な鉄製の螺旋の塔の中に会議室、エレベータ、電気、ラジオのアンテナなどもついている。これは、近代のテクノロジーが作った真のモニュメントと言えるだろう。モニュメントの中のホールは宇宙的な感覚で回転する。慢性的な不況と遅れたテクノロジーで、このようなデザインを完成させるのが不可能な杜会の中でタトリンは、最終的にこの宇宙球体を作り上げる夢を果したのである。
 1917年の革命の年、ほとんどの芸術家達のグループは、国外に出なくなった。レーニンによって高く評価された彼らの活動は、未来派の作家としても有名なルナチャルスキーに預けられだ。ルナチャルスキーは文化又は教育人民委員のディレクターとして活躍した。アヴァンギャルドはこの時、中心的な芸術としてポジションを与えられた。未来派とレフ派の芸術家達は、喜んで新社会へ立ち向っていった。アヴァンギャルドアートは、色々な経験を積んだ芸術家によって革命の中で表現された。



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